吉川醸造でも、今期の酒造りが始まりました。
昨年よりもっと美味しく、もっと楽しくもっと深いお酒を造ろうと蔵一同張り切っています。
酒米が運び込まれてきました。
可搬性に優れるのが酒の材料としての米の利点で、全国から気に入ったお米を取り寄せることができます。さすがにちょっと前まで通貨だっただけのことはありますね。
プラスチックのパレットの上に米袋が7,8段積んであるのですが、その並べ方が少し変わっています。
正方形の穴を中心に点対称で米袋が並べられているのです。井桁積みの変形とでもいいましょうか。
パレットという決められたサイズの正方形の上に、決められたサイズの米袋を考えなしに置こうとすると(私のようなズボラな人間だと)、 端からびたっと並べた挙句「ちと隙間ができたな。えーいここに縦に押し込んでやれ」
…という風になりがちだと思いますが、これだと米袋の安定性に難があります。
真ん中に正方形の孔を残すことで、①米袋は全て安定する平置きとすることができ、さらに②孔に手が入るので重い袋も両手で持ち上げやすい、という利点が生まれます。③空間があることで横から入った外力が抜けやすいということもあるでしょう。
さらに水平に切断したときに常に4袋なので④全体の数量を数えやすいというのもあるかもしれません。
これはまるで「清少納言知恵の板」の実践版ではないか?と思いました。
1742年(寛保2年)に出版された本に載っている、由緒ただしいパズルです。
これ。10年前に子供達の歓心を得るべく買ったのですが衝撃的なまでに反応が薄く、このブログでようやく日の目を見ました。
7枚の板から様々な形をつくるパズルです。特に「釘貫」という名のつけられた形では、中心に正方形の穴があり、最初の形より一回り大きな正方形の外形ができるのですが、これが何だか不思議な感じがして記憶に残っていました。
「釘貫」これだけ見て作れたら凄いです。
正解は下の写真。「清少納言知恵の板」によく似た(より世界的に有名な)「タングラム」というパズルではつくることができない形です。
米袋を見てなぜこれを思い出したかというと、その前日に大山阿夫利神社の社務所でとあるキルト作品を見たからです。
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今週、大山阿夫利神社で行われた薪能を観に行ったのです。実は薪能は初体験でしたがそれはそれは幽玄かつ豪奢な世界でした。演舞中の能楽殿の写真撮影は禁止(当然ですが)だったのでブログに書くのは諦めました。
大山阿夫利神社権禰宜(神主)の目黒さんが撮影された写真をどうぞ。(大山阿夫利神社のtwitterより)
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薪能が始まる前に、貴重な能面や大山詣りに関する資料展示を拝見しました。江戸の人口が100万人の時代に、大山には年間20万人もの参拝者が訪れたと言われています。(日本遺産公式ページ)
人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。
「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」が盛んに行われたと言われます。
ここに「大山 -行衣の記憶-」(キルト作家の八幡垣睦子氏デザイン)という2m四方の作品が展示されていました。大山詣りの際に着ることが習わしだった「行衣」という衣装をリメイクしてできた作品です。
様々な古典文様だけでなく、現代のコラージュ的感覚も備えてできていることに惹かれました。
横からの太陽光線でテクスチャーが織りなす陰影が強調されて美しいです。
つるんとした平面を見ると、目地割り(タイリング:平面充填。平面内を有限種類の平面図形で隙間なく敷き詰める操作のこと)したくなる発作が起こることがあります。
以前は仕事上「この壁面だったら〇mm×〇〇〇mmの石で目地寸法は〇mmにすればちょうどうまく割れるから芋目地にしようかな?」というようなことばかり考えていたためです。
この作品における、自由闊達で既存のやり方にとらわれないタイリングはとても印象的でした。
六角形(亀甲)による構成が段々小さくなるところなどはあるようであまり見かけません。
まるでエッシャーの作品「メタモルフォーゼⅡ」の一部分のようです。羽ばたく鳥の代わりに蜂の子が入っていますが。
メタモルフォーゼⅡの全体図は以下のリンクで。横にとても長い作品(幅4m)で、最初と最後がまた繋がるような構成になっています。(リンク。画像をクリックすると拡大できます)
動画にしてYoutubeにもアップされています。人間が目の焦点を合わせられる範囲は限られていますから、時間をかけてゆっくりと移動しながら見て行かざるを得ないという意味で「時間をデザインした芸術」と呼ぶそうです。もちろん私が。
メタモルフォ―ゼⅡに触発されタイリングを操作してできた作品は多々ありますが、例えば、「私(I)が中心(デービッド・オールセン作)」。中心にある(I:アルファベットのアイ)の文字が周囲に行くにしたがって少しずつ姿を変えて行きます。
この作品について、「ゲーデル・エッシャー・バッハ あるいは不思議の環」で高名なD.R.ホフスタッターは著書「メタマジック・ゲーム」の中でこう解説しています。少し長いですが引用します。
私が見たものの中では最も叙情的で優雅な作品である。
この作品の持つメタファーも私の気に入った点だ。格子の中心にI(アイ)、つまり自己がある。それに接して別のI、中心のIと非常に似ているがまったく同じではなく、中心のIほど単純でもない。中心からはずれるに従い、Iの変種は多様化・複雑化していく。私には、これが人間関係のネットワークを表しているように見える。
私たちは各自、自分の格子の中心におり、「自分が最も正常で、良識があり、わかりやすい人間だ」と思っている。私たちのアイデンティティ-パーソナリティ空間における私たちの「形」は、私たちがこのネットワークの中にどう埋め込まれているか、つまりどういう人々のアイデンティティ(形)に囲まれているかによって決まる。
これは、ほかの人々のアイデンティティを私たちが形づくり、私たちのアイデンティティを他の人々が形づくるということを意味している。
この寄せ木変形は、実に単純にかつ効果的に、このことを私に語りかけているのだ。
なるほど、「私」のIであり、IdentityのIであり、その周囲には一人として同じ人間はいないということですね。
米袋の積み方に話を戻します。中心に正方形の空間を残す、「思い切った」平面充填法。
上記作品のI(アイ、自己)を中心にした例からすると、この積み方は何のメタファーであることを示唆するのでしょうか。
口(くち)を中心にして周囲が日本中の多様な米粒で満たされる。
つまり、、、酒米がキッカワのメタモルフォーゼ(「変態」「変容」を意味します)によって美味しいお酒になり、それをやがて世界の人々が口にするであろう。
このことを実に単純にかつ効果的に、我々に語りかけていたのです。 たぶん。
GN
反復と変容。
Philip Glass - Metamorphosis Ⅱ